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【批評】あなたとなら、きっと超えられる【作者:渚 龍騎】

  • 2024年5月26日
  • 読了時間: 10分

 個人的な感想から真っ先に述べてしまおうと思う。一言で済む。


「いくらなんでも過小評価され過ぎ!」


 そのくらいウェルメイドな作品だ。衝動的に支援絵を書いてしまったくらいだ。

自作支援絵(第一話でマフラーを貰ったシーン)


本作品はハーメルンで公開されているが、赤ゲージがマックスになっていてしかるべきだと思っている。今のところ(2024年5月時点)オレンジのゲージが1目盛りだけ溜まっている状況だが、私としては納得いかない。


 とはいえ何かしらの強いメッセージを見ることのできるタイプの作品ではない。作者の思想の強さみたいなものはあまりうかがうことができず、その点では物語に強い意味を求めるタイプの読者の期待に応えられるものではないことも事実だ。


 「物語に意味があまり込められていないことなんてあるのか」という疑問を持つ人もいるかもしれない。確かに伝統的な作風(具体的に言えば近代以前)の作品なら、基本的に何かしらの教訓とかメッセージを含んでいることが多い。だれしも国語の授業で「作者の言いたいことは何か」のような質問に苦しんだ経験はあるはずだ。当時は苦労させられた問いかもしれないが、逆に言うと、「基本的に作品には作者の言いたいことが込められていて、ある水準以上の読む力があればそれを読み取れるはず」という発想があるわけだ。


 しかしこれは現代的なストーリーについては必ずしも当てはまらない。例を挙げるならば、ハリウッド映画版の「バイオハザード」が適切だろうか。


 あの作品にポリティカルなメッセージを見出すのは極めて難しい。公開当時にバイオテロが盛んな社会情勢でもあればそれに対する警鐘としての意味を持ったのかもしれないが、あいにく「ウイルス・細菌兵器で世界が滅ぶかも」のような不安が世界的に蔓延していた情勢というのはなかった。核兵器の存在を通して世界滅亡の恐怖が共有された時代ならあった(冷戦当時ほどでないにしろこの雰囲気は現在も持続している)ため、あれは核兵器のメタファーであって「バイオハザード」はそれに対する批判である、と無理くり解釈できなくもないかもしれないが、流石にこじつけが過ぎる。それならそのまま核兵器を作品に登場させた方がいい。自分で書いていてつくづく思うが、バイオハザードにそんな読みをしている人を実際目にしたら、少し距離を置くと思う。


 他に例を挙げるなら、少し前に話題になったマリオの映画もその類だ。ストーリー自体はあるが、そのストーリーから何かしらの学びを得られる作品かと言うと、決してそんなことはない。一時期あの映画に対して一般人と評論家の評価があまりにもかけ離れていることが話題になった。その原因は大衆が「マリオらしい」ストーリーを見ることだけを期待している一方で、その背後のメッセージを読み取ろうとする評論家は作品における教訓・成長の空虚っぷりに憤慨してしまうことにある。評論家からすれば「見たところで何も学びがなく、見る意味がない」作品なのである。


 つまり何が言いたいのかと言うと、良いか悪いかは個人の評価にゆだねるとして、世の中にはストーリーとしての体裁が整っている一方で、その中にメッセージが代入されていない、いわば空洞の物語がある。


 分類するならば、この作品も空洞の物語に類する。私の読みが浅いだけだったら申し訳ないが、この作品に現代社会に対する何かしらの問題意識を読み取ることは難しいと思う。

 

 しかしメッセージが無いのならばダメなのかと言うと、私としてはそんなことはないと思っている。むしろ無理やりメッセージを込めた、いわゆるポリコレ的作品にうんざりしている人は私だけではないはずだ。本作は空洞だからこそ、その外側を構成する物語の骨格の秀逸さが浮き彫りになっている。私はこの作品が好きだし、どの作品にも言えることだが、説教めいたプロパガンダに陥るよりは空洞のストーリーの方がずっと良いと思っている。


 だからこそ、以下の批評では作品の社会的意義や教訓の深さを味わうのではなく(空洞を読もうとしても不毛なだけである)、良く組み上げられた物語の骨格・ストーリーの構造を鑑賞していく。その過程で過去作品と有機的に結びついたこの作品の有様を見ていくことになるはずだ。


 さて「再上映」の批評でも触れたことだが、創作の本質とは借用である。この世の作品はすべて何らかの影響を過去の作品から受けており、真にオリジナルな作品というものは存在しない。創作とは、過去の作品から要素を借り受け、それらを編み込むことで作品が成立するプロセスである。創作というアウトプットをするためには材料となるインプットが無くてはならないが、そのインプットというのは他人が創った作品を鑑賞することに他ならないからだ。


 だからこそ名作と認められるべき作品の重要な要素というのは、「どれだけ上手に過去作品から借りてこられるか」であり、上手に借用した作品は借用元の作品と連なる資質を持つに至るというのが私の持論だ。


 名作同士は深いところでつながっていて、この作品もそれらに連なる資質をもった作品である――私はそのことを称賛したくてこの文章を書いている。本作品を読んでいて、私はいい意味で本当に色々な作品を連想したのである。


 本作における借用がいかに巧みで、いかに良く構成された作品であるのかを述べていこう。


 まずスタート地点として、男女(トレーナーとナリタトップロード、以下ナリタトップロードのことはトプロと略記する)の両方に欠落があるというスタート地点が設定されている。トレーナーの場合の欠落は彼が親から見放された「みなしご」状態であることに起因したもので、トプロの場合はレースでの勝利が欠けている。


 お互いこの欠落を埋めることを原動力に物語が進むわけだが、その過程でお互いが欠落が未だ埋まらず未熟な(本当に望む形での自己実現が果たせていない)状態にある相手を保護する役割を交代で演じる。このような役割はよく「ライナスの毛布」という言葉で例えられる。


 個人的に好きな作家の一人に吉本ばなな氏がいるのだが、男女が交代でライナスの毛布を演じるパターンというのは、彼女の「キッチン」や「満月」に見られるパターンである。私は彼女のことを天性の物語作家だと思っているが、同じことをやってのける人がここにもいたことにグッと来た。


 何故というと、たいていは「保護する」役割と「保護される」役割は固定されていて、どちらかがどちらかに一方的に庇護を与えるだけということが多いからである。例えばトトロはメイやサツキを保護するが、彼女たちはトトロを保護する側にはならない。役割を固定させずそれぞれが複数の役割を受け持つ形は、ストーリー構成上難易度が高く、センスもしくは技術をもつ人でないと実現不可能である。


 特にウマ娘二次創作ではトレーナーの人物像があまりにも出来過ぎていることが珍しくなく、それゆえトレーナーが一方的に周囲に対して庇護を与える関係性になっていることが多い。だから悪いとまで短絡的に言うつもりはないが、役割が固定されていると場合によっては役割ありきのキャラクターに見えて薄っぺらさを感じる人もいるはずだ。トトロに関してはそんなことはないと思うのだが、特定の機能を果たすためだけに用意されただけ、のような感じが隠されることもなく露骨に表出していると、ご都合主義感が否定できない印象になってくる。


 しかし本作品では生徒であるトプロだけでなく、トレーナー自身も未熟なのである。作品を通して二人は一緒に成長していく。この双方向性から作者のストーリー構成能力の高さがうかがえる出来になっている。



------【以下決定的なネタバレ含むので注意!!!!】------














 他にもう一つ素晴らしい点がある。


 それはトレーナーとトプロが最終的に結ばれない点だ。ハッピーエンド派には「なんでや!」と思わるかもしれないが、本作のテーマを勘案すれば、この結末こそが導き出されるべき自然な結末であったと思う。もしハッピーエンドにしてしまうと、作者のエゴが拭えない終わり方になってしまいかねないと私は考えている。


 それは何故か?ということを説明するには、「ライナスの毛布」に関してもう少し補足が必要だろう。 


 先ほど彼らの関係を「ライナスの毛布」に喩えたが、もうひとつ別な喩え方をすると「子供が一人で寝るときに脇に置いておくテディベア」とも言い換えられる。


 テディベアは、親を欠いて分離不安にある状態の子供(これは両親から見放された境遇にあるトレーナーとも重なる)を、親の代わりに一時的に保護して安眠を促す役割がある。まだ未熟な状態(言い換えると「子供」の状態)にある相手を保護してくれるという点で、トレーナーやトプロがお互いにやっていることと、テディベアの果たす役割が重なっているのである。


 しかし、大人になれば一人で眠るようになるものである。テディベアと一緒のままでは子供っぽいことこの上なく、本当の意味で成長したならテディベア無しで生きていけるはず。


 だからこそ、物語を通じて成長した二人は、テディベアでありまたライナスの毛布でもあるお互いと別れを告げるべきなのだ。未熟な状態にあるからこそライナスの毛布が必要なのであり、言い換えるとライナスの毛布はお互いの未熟さの象徴である。その未熟さの象徴と別れを告げ、一人で歩んでいける強さを描いてこそ真の成長を描いたといえるのであり、この点で二人が結ばれなかったことは、お互いの成長を象徴的にうまく表現できていると感じる。


 このあたりは「借りぐらしのアリエッティ」で、アリエッティと翔が最終的に結ばれず、それぞれで生きていく決意をしたことに重なるだろう。彼らもお互いにいい影響を与え、保護を与え合って成長していく。よくよく思い返せば、翔もトレーナーと同じく心臓にハンデを負っている点でも共通している。やはり名作同士に通底するテーマがあるのだと再確認した次第だ。


 加えれば、そもそもトレーナーが「みなしご」状態かつ体にハンデを持ってスタートする点が、折口信夫の言うところの「貴種流離譚」タイプの神話・昔話およびそれらを元にした物語(手塚治虫の「どろろ」、民話の一寸法師、他にはオイディプス神話とか)などと重なっているし、それらの作品のテーマをうまく織り込むことに成功している。


 本作を読んでいると、このようにして様々な過去の名作たちのテーマが連想される。意識してのものかそうでないかはわからないが、借用とストーリー構成の技術の巧みさがとにかく際立っている。(私自身こういうストーリーを作ることが大きな目標である)


 以上が本作の素晴らしい点である。


 以降は細々とした気づいた点をあげつらって終わりにしたいと思う。


 文章についてだが、「小説らしい」装飾がかなり目立つ。形容詞と堅めの熟語を重ね塗りして修飾していく印象を受けた。全体として丁寧に書かれている印象があり、読みやすい。


 しかし個人的に気になったのは、トプロの髪に関して執拗に「金砂のよう」という比喩が繰り返されることだ。その時の精神状態に応じて見え方は変わるのだから、他のたとえも積極的に使っていいのでは?と思わないでもなかった。お気に入りの表現なのだろうか?


 とはいえそういう点を考慮しても素晴らしい作品であることは間違いないと思うので、私はもう衝動的に本作に10評価をつけてしまった。これはハーメルンでの最高評価なのだが、「このサイトでこれ以上の作品とは出会えない」10作品までしかつけることができない評価なので、私の本気を察していただければと思う。


 既に作者には感想欄やXで直接感謝を伝えたが、何度お礼を言ってもバチは当たらないと思うのでここでも感謝を述べる。


 作者の渚さん、素晴らしい作品をありがとうございました。プロの作家を目指されるとのことでしたが、渚さんなら必ず叶うと信じ、ここに筆を置きます。

 
 
 

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