【自作短歌】「推し活」って良いこと?
- 2024年6月30日
- 読了時間: 5分
映写機《かんきゃく》の推しこそ強けれわれの映る銀幕上のひびよ たえなん
*以下に短歌の背景や表記の解説をするので、自分で考察したい人はスクロールをしないようにしてください。
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【表記】
「かんきゃく」というルビと「たえなん」(旧かなでは「たえなむ」 or 「たへなむ」)から分かるように、文語新かな表記を採用。
・「強けれ」
「つよけれ」、「こわけれ」の両方で読めるようにしている。「こわけれ(こわし)」は普通に「恐ろしい」の意味で使ってる。文語でこの意味ははあまり見ない気もするが、室町時代後期以降は「こわし」に現代と同じ意味があったそうなのでたぶんセーフだと思いたい。
・われの映る銀幕上のひびよ
「我の映る銀幕上の日々よ」と「割れのうつる銀幕上の罅よ」。後者は「割れ」と「罅」の縁語になっている。
他にも「われうつる」のところは、農作物の「ツル割れ」病や「鬱」の音を含むようにして暗い感じを演出しようとした。
・たえなむ
新かな表記で「絶ゆ」と「耐ふ」を掛詞にして
絶えなむ(絶えてほしい)
耐へなむ(耐えてほしい、耐えよう)
という意味を重ねた。「なむ」は他への希望の終助詞と、強意の助動詞+意志の助動詞の両方で解釈できるようにしたつもり。「なむ」の識別を教わったときに「下二段とか上二段動詞だと未然形と連用形の語尾が一緒だから二つの『なむ』の意味を重ねられるのでは?」と思い立ち挑戦。
【背景】
自分自身ミスターシービーを推しているわけだが、「推し活」の対象となる人物って映画のスクリーンみたいなものだよな、「推し」って一種の消費行動であってそんなに綺麗な感情ではないかもな、と思ったのがきっかけ。
「推し」はスクリーン上の登場人物で、ファンはその物語を楽しんでいる。「推し」が現実の存在だとしても、多分現実の水準じゃなく映画とか物語の水準で鑑賞している。自分としては、寺山修司*1が魅せられたのも、ミスターシービーそのものというより「ミスターシービーが見せてくれる物語」だった、と言った方が正確なような気がしてならない。
「推し」の物語を見ると同時に、観客は「推し」に自己を投影し、自分の理想や経験を重ね合わせ、共感したり、応援したり、怒ったりする。「推し」をスクリーンとして利用して自分の人生のプロジェクターとなることで、疑似的に一種の自己実現を果たした状態というか、自分の人生の主体となれたような感覚を得ているところがある、と言えるかもしれない。(そもそも「物語」と「自己実現(大人になるプロセス)」と「成人式」とが同様の構造を持っているのは、民俗学とか文化人類学とか物語論でさんざん指摘されてきたこと)
物語の水準ではなく、キャラそのものとかモチーフの馬そのものが純粋に好きなら、見た目も中身(もちろん現実の馬は人格を持たない)も何もかも違う存在同士を、同じ文脈で好きになるなんて奇妙な話に思われる。現実の人間関係で外見・内面共に異なる二人を、同じように好きになるってなかなかあり得ない。二人とも好きだとして、その「好き」の質は全く異なるはず。
しかし自分の「推す」気持ちを見つめたとき、実感としては史実上の馬と擬人化コンテンツのウマを好きな気持ちって地続きな感じがする。なら両方を好きになるメカニズムとか原因を考えたとき、共通するものは何かというと、繰り返す部分もあるが以下の2点が思い当たる。
①背後で同じストーリーを共有している。
馬であろうとウマであろうと、接触することで同じ物語にアクセスできる。両者が地続きな感覚の根元は多分これ。同じ物語を消費できるという意味で、同様の利用価値がある。
②自分を投影できる
①が物語としての利用価値なら、こちらはスクリーンとしての利用価値。自分を投影できないような、言い換えれば共感することがないような対象には、そもそも興味が向かない。「全く共感できないくらい嫌い」という興味の向け方もあるが、その場合は「反対の自分」を投影している。
ファンが「推し」を自分のスクリーンとして利用していることは、しばしば見過ごされがちで、無自覚に行われているように思われる。それって利用される「推し」からすると重荷だったり迷惑かもしれないよな、「推す」って無条件に良い行動ではないかもな、と考えたことを歌に反映させた。実際ファンがアンチになるのって、「推しを自分のスクリーンとして利用できなくなったとき」=「推しが自分の思い通りの存在ではないと気づいてしまったとき」な気がする。
アンチは対象を「スクリーン(自分の反映)」として利用するのではなく、「スクリーン(反対の自分の反映)」として利用するという一点のみにおいてファンと異なるのであって、「推し」を消費・使用している点では同じというか、容易に近接する鏡合わせの存在なのでは?
例えるならルークとダース・ベイダー的な関係だと思う。フォースを良いことに使うのがルーク、悪いことに使うのがダース・ベイダーであるように、「推し」を好意的に使うのがファンで、悪意をベースに使うのがアンチという感じ。両方「推し」を利用することで主体化を果たしている、言い方を変えれば、「何者かになれたような感覚」を得ている部分があるのは共通しているように見える。
少しフォースの使い方を間違えるととたんに暗黒面に落ちてしまうのと同じ理由で、一転アンチが生まれるのかもしれないなー、なんて思った。
でも自分、やっぱり推すのを止められないです。(正直)
自己批判はするけど、直さないし直せないってのもな……。もうよくわからん。
*1寺山修司を知らないシービー推しがいたら、ぜひ彼の競馬エッセイ「旅路の果て」を読んでください!シービーのイベントには彼の作品からの引用がちりばめられていますし、固有スキル「叙情、旅路の果てに」はまさに「旅路の果て」からの引用です。文庫版の帯にはウマ娘のミスターシービーが採用されています。シービーの「短歌が趣味」という設定も、おそらくは彼が歌人であったことを反映したものです。まあ「歌人」という枠で説明することに無理があるくらいマルチに活躍した人でもあるんですが。


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